俺がハマっていたこと

(ハマれ!ダーリン〜ハマらないよりはハマりたい〜)

将棋

ハマり時代 小学時代、2000年〜現在も継続中

俺は小学一年の頃には将棋指せていました。どうして将棋覚えたのかも覚えてないくらい物心ついた頃から将棋のルールは知っていました。俺に将棋教えたのは間違いなく俺の親だと思います。だけど親に「俺に将棋教えたの誰?」って聞いたことがあって、親も俺に将棋教えたことを覚えていないらしい。小学四年の時学校の将棋クラブのトーナメント四年生の部で優勝する。この時は四年生だけのトーナメントで他の学年の子と対局できなかったけど、五、六年生と将棋を指しても多分勝てたと思う。なぜなら六年生の兄の友達の強い子と将棋を指して必勝だったことがあるからです。それに俺は兄より将棋強かったし。その将棋は最後俺の大ポカ(うっかり王様取られた)で負けたんだけど将棋では勝っていたのです。将棋で勝って勝負に負けたみたいな。その将棋クラブだけど当時は俺は駒落ちというハンディキャップのルールを知らなくて、友達も駒落ちを知らなくて、結局一年間で一回も負けなかった子がいたな。あれはかわいそうだったな。小学高学年の頃はテレビの将棋番組(NHKとテレビ東京)も見ていました。中学、高校、大学時代は学校に将棋部がなかったので将棋とは疎遠になりました。ファミコン、パソコンの将棋ゲームでたまに遊ぶくらい。そんな時(ってどんな時じゃ)2000年に人気漫画「月下の棋士」がドラマ化されてテレビ放送される。凄くおもしろいドラマに仕上がっていて俺は毎週楽しみに見ていた。このドラマを見ていて、「そういえば俺将棋好きだったよな」と、ふと我に返る。それからは小学時代以来久しぶり将棋にハマりました。まず将棋番組を毎週見るようになりました。CSで囲碁・将棋チャンネルというのがあること知り、ここでも将棋番組をよく見ました。将棋の本を買い漁りました。そして定跡を覚えました。子供の頃はほとんど将棋の本なんて読んでなかったし将棋の本があること自体よく知らなかったし(俺が昔持っていた将棋の本は児童書の二冊だけ)定跡なんて知りませんでした。俺が小学生の頃大人向けの将棋の本があることを知っていたら本屋で探して読みまくりだったでしょう。そして最新のパソコンの将棋ソフトを買いコンピュータと対局。それにネット将棋なるインターネットを介して人と対局できることも知り、ネット将棋にハマる。また、将棋雑誌を読みその雑誌で知ったのかインターネットで知ったのか忘れましたが将棋道場なるものの存在も知る。ネットだけではなく将棋道場に行って実際に人とも対局するようになりました。俺はこの時大人になってはじめて将棋道場という、人と将棋を指せる場所があることを知りました。小学生の時将棋道場の存在を知っていたら、週末は毎週のように電車に乗って将棋道場に通っていたと思います。今も将棋は大好き。自分で将棋指すよりもテレビやインターネットでプロの対局を観戦したり、誰がタイトル取ったとか順位戦で勝ったとか将棋界の動向に注目する方が好きです。将棋まつりや将棋イベントにも頻繁に足を運んでいます。将棋っておじいちゃんになってもできるし一生の趣味ができました。将棋への興味は薄れる気配がなく、これからも趣味であり続けると思います。本当に将棋と出会えて良かった!。


クラシック音楽

ハマり時代 1999年、2008年〜現在も継続中

俺はそれまでは音楽はクラシックというものを聴いたことがありませんでした。俺の周りにもクラシックを聴いている人なんて一人もいません。ところが1999年にCDショップでクラシックのいろいろな作曲家の代表曲のさわりの部分だけを集めたCDが目に留まりました。「3分で聴く 究極のクラシックVOL.1 究極のクラシック・ベスト25」というCDに偶然出会います。俺は興味本位でそのCDを買ってみました。そしてこのCDに収められている曲でクラシックの素晴らしさに目覚めました。特に聴いたことあるけど曲名はわからなかった、モーツァルトの「ピアノ・ソナタ第11番第3楽章(トルコ行進曲)」のメロディーの素晴らしさ美しさチャーミングさに心打たれました。このCDがきっかけでクラシックに興味を持った俺ですが、クラシック初心者の自分はクラシックのことなんて全然わからない。クラシックのことを教えてくれる友達もいない。次に何を聴いていいかわからない状態でした(この頃のことを思い出しながら書いています)。それでまずは名曲・名盤の本を買ってそこに紹介されている曲のCDを聴いてみることからはじめました。CDを買うのはお金がかかるのでなるべくレンタルショップや図書館でCDを借りていました。単独の曲のCDだけではなく、一番最初に買ったCDのようにオムニバスで代表曲ばかりを集めているCDも借りて知識を広げようともました。最初は全然クラシックのことをわからなかった俺も段々にわかってきました。そして自分にはモーツァルトが一番合っている、好きな作曲家だということもわかりました。こうして俺はクラシックリスナーになったのです。でも次第にクラシックへの興味は薄れ、興味を持ち始めてから一年くらいでクラシックは飽きてしまいました。で、2008年、突然(たいした理由はなかったと思う)パソコンをやってる間のBGMとしてクラシックが最適であることを発見する。「そういえば俺クラシック好きだったことあったよな」と、ふと我に返る。9年ぶりにクラシックに再度興味を持った。クラシックのことなんてほとんど忘れていた。曲名もよく思い出せない。昔買ったCD(こんなの買ったっけ?何でこんなの買ったんだ?というCDもあった)とレンタルや図書館で借りてコピーしたCD-Rを再び聴き始める。それだけでは飽き足らずクラシックの本を買い、そこに紹介されている曲のCDを新しく買ったり、レンタルや図書館で借りたりと自分が昔したことと同じような行動を繰り返すことになる。人間っていつまで経ってもやること同じなんだな。それに今回はディスクユニオンという新品CDより安く買えて、しかも廃盤になったCDも置いてある中古CDショップの存在を知る(ディスクユニオンにはクラシック専門店もあります)。こうして俺はクラシックCDコレクターにもなったのでした。クラシックは同じ曲でも指揮者やオーケストラが異なると全然違う感じの演奏になり、それがおもしろくて好きな曲の同曲異演奏のCDをたくさん集めた。ポピュラーミュージックは一人の人が一つの曲しか歌っていないからCDを一枚買えばいい。一枚買えばそれで済む。でもクラシックは違う。クラシックの楽譜というのは劇の台本みたいなもので、役者や演出家が違えば劇がまるで違ってくるように、指揮者やオーケストラ、ピアニスト、ヴァイオリニストなどが違えば同じ曲が全く別物のようになる。例えば俺はモーツァルトの「交響曲第40番」という曲が好きなのですが、かなりの数のこの曲のCDを集めました。こうやってクラシックが趣味の人はCDを買い集めるようになりコレクターになる人が多いのです。そしてCDで聴くだけでは飽き足らず、生演奏、即ちクラシックのコンサートにも足を運ぶようになりました。はい、こうなればもう立派なクラシックマニアの出来上がりです。クラシック音楽は目を瞑ってじっくり聴くも良し、パソコンやったり本を読んでる間のBGMとしても良し、寝る時の睡眠導入剤としても良しでこれからもしばらくは聴き続けると思います。


ガンダム

ハマり時代 小学時代、2003年〜現在は微妙

俺が小学五、六年頃世の中はガンプラブームで社会現象になりました。俺の住んでた町でもガンプラは大流行して俺も当然ガンプラが好きで、お店の開店時間前から並ばないとガンプラは買えなかったので俺も列に並んで買いました。はじめて「ザク」を手に入れた時はうれしかったなー。「俺信じらんねーよ」って何度も言ってました。そんな機動戦士ガンダム好きの普通の小学生でした。男子は全員ガンダム好きなのが普通。ガンダム嫌いな男子は普通じゃない。ガンダム嫌いな男子なんて一人もいなかったけど(隠れて実は嫌いな子もいたかもしれないけど言い出せる雰囲気じゃない)。中学三年の時機動戦士ガンダムの続編機動戦士Zガンダムがテレビ放送されました。俺はガンダムの続編が放送されるということで期待して最初の頃は見ていました。でも「アムロは?」「カミーユって誰だよ?」ってな感じでどうも新作ガンダムに感情移入することができませんでした。ストーリーも難解で当時中学三年の子供の自分には理解できませんでした(実際Zガンダムのストーリーや勢力抗争関係と組織は難しくとても子供の見るアニメではない)。つまらなくなった俺は放送開始から数話で挫折しZガンダムを見るのを止めてしまいました。その後の機動戦士ガンダムZZは一話も見ませんでした。でもガンダム自体は初代が好きだったので興味はありました。1989年に関東ではZZガンダムがテレビで再放送されました。当時高校を卒業したばかりの俺はZZガンダムを理解することができ毎日楽しみにして見ました。「ZZガンダム超おもしれー」と思いました。それでZガンダムももう一度見てみたいと思いましたが、当時はZガンダムはビデオレンタルされておらず見ることができませんでした。ファースト、ZZガンダムが面白かった俺はZガンダムにも興味を持ち、見たいけど見れない。大学時代仕方なくZガンダムの漫画を見つけてそれを読んでみました。「やっぱりZガンダムおもしれーよ」と思いました。そして1995年にZガンダムのビデオがレンタルがされていることを知り、やっと見たくて仕方なかったZガンダムを見ることができました。当時24歳の自分は中学三年の頃の子供の自分ではない。昔あんなに難解でつまらないと思ったストーリーも理解することができ、Zガンダムも面白いと思いました。それからしばらくガンダムというものは好きだけど特に見返したりガンダム関連本を買って読んだりはしませんでした。時は流れて2003年、俺は一人カラオケでZガンダムの主題歌「水の星へ愛をこめて」を歌いました。カラオケの画面にはZガンダムのアニメの映像も流れていました。その映像を見て「俺もう一回Zガンダム見たいかも」と思いました。それからです、ガンダムに再びハマりはじめたのは。それでその後1995年にレンタルで借りてダビングしておいたZガンダムのビデオを見返してみました。「Zガンダム超おもしれーよ」と思いました。今度はZガンダムの解説本も買って一話見たらその回の解説も読むという感じでした。以前にZガンダムを初めて見た時にはわからなかった細かいことも解説本には書いてあり、よりZガンダムを理解することができました。Zガンダムを全話見終わった後はZZガンダムを全話見て、その後はファーストを全話見ました。ファーストの後は0083、ポケットの中の戦争(これも1989年にビデオ見たけど当時はあまり面白いとは思わなかった)、第08MS小隊とOVAにも手を出しどっぷりとガンダム世界にハマっていくのでした。ガンダムの監督富野由悠季氏の発言に「機動戦士ガンダムは戦士がいかに戦い、いかに勝つかといった単純な戦争ドラマではないんです。あくまでもアムロの目で見た人と人とのコミュニケーションこそが基盤であり、戦闘部分は2次的なものにすぎません。・・・しかし繰り返しますが、あくまでも人と人とのコミュニケーションを主眼にドラマを描きました。」という言葉があります。まさにその通りだと思います。登場するモビルスーツがカッコイイのもガンダムの魅力の一つですが、どの作品のガンダムでもガンダムの面白さはその人間ドラマにあると思います。ガンダムに出てくるキャラクターは個性的でとても魅力的な人物ばかりです。2003年からは機動戦士ガンダムSEED、機動戦士ガンダムSEED DESTINY、機動戦士ガンダムOOと新作ガンダムもテレビで見るようになりました。


サッカー観戦

ハマり時代 大学時代〜社会人時代 1992年〜現在は微妙

サッカーは昔はJリーグもなく、テレビ放送されていたのはテレビ東京のダイヤモンド・サッカーと正月の高校サッカーくらいでした。中学あたりから高校サッカーを見始めました。1990年イタリア・ワールドカップが開催されました。これは俺がはじめて本格的に見たサッカー・ワールドカップでした。その中でも一番のスター選手はアルゼンチンのディエゴ・マラドーナ。彼は名前だけではなく本当にプレーも素晴らしく、彼一人だけは別次元のプレーをしていました。特徴的なドレッドヘアーがトレードマークのオランダのカリスマ、ルート・フリット選手も好きで注目して見ていました。1992年スウェーデンでサッカー欧州選手権が開催。その模様は録画ですがテレビ東京で放送されました。その中でも準優勝したドイツのトーマス・へスラー選手が決めた二本の芸術的な直接フリーキックに魅せられました。1992年はJリーグが始まる1年前であり、日本でもサッカー熱が高まっていた頃でした。また、1992年は広島でサッカー・アジアカップが開催され日本は初優勝しました。その模様はテレビでも生中継され私は食い入るように見ていました。そして1993年日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグがはじまりました。当時のJリーグ人気は今とは比べ物にならない程凄まじく社会現象にまでなりました。Jリーグの試合はNHKと全ての民放で放送され高視聴率。公園では子供達が全員サッカーをして遊んでいました。1993年の流行語大賞は「Jリーグ」。俺もJリーグにどっぷりとハマりました。ちなみに俺の好きなチームは当時も今も浦和レッドダイヤモンズ。1993年はワールドカップ・アメリカ大会の予選もあり日本代表も注目されました。アジア一次予選の大一番、グループ最大の強敵UAE戦は国立競技場まで足を運び観戦しました。日本代表が得点を入れた時頭の上から紙吹雪が舞って俺の目の前が雪化粧のようになった光景は今でも忘れられません。日本代表は無事一次予選を通過し最終予選に進みました。最終予選では初戦のサウジアラビアに引き分け、2戦目のイランに負けて、2戦して1分1敗。絶望的な状況から北朝鮮、そして最大のライバルであり壁でもあった韓国に連勝し最終戦のイラク戦に勝てばワールドカップ初出場という状況になりました。ちなみにこの韓国戦の勝利ですが、それまで日本は韓国には圧倒的に分が悪く、ごくたまに勝ってはいましたが、どれも攻め込まれてカウンターで点取って勝利というものばかりでした。しかしこの試合の内容でも押してしかも勝負でも勝つというのはサッカー日韓戦の歴史上はじめてのことだったそうです。しかし皆さんご存じのようにイラク戦の試合はロス・タイムで失点して引き分けに終わり日本代表はワールドカップ初出場を逃しました。いわゆる「ドーハの悲劇」である。俺は涙を流して泣きました。人生ワールドカップに賭けていたからです。サッカー日本代表に賭けていたからです。熱狂的なサッカーファンだったからです。あまりのショックに起きることが出来なくなり24時間布団に入り寝続けました。あのショックはしばらく忘れられませんでした。当時俺は人生に絶望していて死ぬことを考えていました。でも「死ぬのはワールドカップ最終予選を見届けてから」と思っていました。そして「もう死んでもいいや」と思いました。死ななかったけど。無類のサッカー好きが影響して、俺は大学の卒業論文を「サッカー人類学〜サッカーから民族・社会・文化を考える〜」というテーマで書きました。俺は文化人類学のゼミに所属していました。ナショナルチームのサッカーのスタイルにはその国の国民性や文化がよく表れるので、そういうことを論点にして書きました。また、サッカー程世界に広まったスポーツ文化は他にないからです。卒業論文を書く為にかなりの数のサッカーの本を読みました。ファンブック的なものの中にも論文を書く資料となりうるものはありましたが、当然学術的なサッカーの本を多く読みました。サッカーの歴史にもかなり詳しくなった。その後、大学を卒業してからも俺のサッカー熱は続き、人生サッカーで動いていると言っても過言ではありませんでした。当時の俺の趣味の一番がサッカーであり、関心事の一番がサッカーでした。サッカーに関するいろんな妄想もしてました。そして1997年フランス・ワールドカップアジア第三代表決定戦で日本代表はイランを破りワールドカップ初出場を決めました。それが「ジョホールバルの歓喜」である。文字通り俺も歓喜、狂喜乱舞しました。


洋楽ロック・ポップス

ハマり時代 高校二年〜大学時代位まで 1987年〜1990年代中頃

俺ははそれまでは音楽といったら日本のものしか聴いていませんでした。高校二年の時の24時間テレビでヨーロッパというスウェーデンのハードロックバンドが出演していました。俺はそれを見ていてヨーロッパのファイナル・カウント・ダウンという曲は以前から有名でヨーロッパに興味を持ちました。それから俺はヨーロッパのCDを買いヨーロッパをきっかけにしてさまざまな洋楽を聴くようになりました。目から鱗が落ちました。洋楽は日本の曲よりも曲やメロディーが素晴らしかったのです。当時日本の音楽界はまだJ-POPと呼ばれる前で大概の曲は歌謡曲と呼ばれていました。当時日本の前衛的なアーティストと言ったらTMネットワーク、BOOWY、久保田利伸くらいしかいませんでした。俺はむさぼるように洋楽を聴き始めました。洋楽は当時流行りの曲から昔の曲まで知らない曲ばかりだったので、まるで宝の山のようでした。しかもその宝は日本のものよりも素晴らしい。レンタルショップでCDを借り、FMラジオで洋楽番組(アメリカン・トップ40など)を聴き、テレビで洋楽番組(ベスト・ヒットUSAやMTVなど)を見ました。アメリカ・ヒットチャートのビルボードの最新ランキングに毎週注目しました(当時はまだネットのない時代。ビルボードの最新ランキングの初出はラジオ番組「アメリカン・トップ40」で知ることができ、雑誌は「FM Fan」で紹介されていました)。洋楽を聴いていく内に自分はハードロック・へヴィメタル系のロックが好きだということがわかりました。それでヨーロッパやボン・ジョヴィなどのハードロックバンドが特にお気に入りになりました。またU2も大好きになりました。U2の音楽はわかりずらく、最初は「何だこれ」と思いましたが、U2の曲は聴けば聴くほど味の出るスルメのような曲ばかりで次第にハマっていきました。勿論当時ヒットチャートを賑わしていたマドンナやマイケル・ジャクソンなどのポップスも聴きました。でもジャンルで言えばポップスよりもロックの方が好きでしたね。俺は自分の好きな曲のプロモーションビデオを録画して何度も見たりもしました。ボン・ジョヴィのリヴィン・オン・ア・プレイヤーのプロモなんかはかなり見て一人で燃えてたなあ。それにしても1987年の音楽シーンは本当におもしろかった。ビッグネームと呼ばれている人のほとんどが新曲を発表しヒットチャートを賑わせていた。マイケル・ジャクソン、マドンナ、U2、ボン・ジョヴィ、ホウィットニー・ヒューストン、ブルース・スプリングスティーン、スティング、ブライアン・アダムス、ジョージ・マイケル、シンディー・ローパー、ホワイトスネイク、ヨーロッパ、ハートなど大物と呼ばれるほとんどがいた。それに伝説のバンド、フリートウッド・マックの復活もあった。こんな豪華な年は1987年以外なかったと思います。高校を卒業した後友達が一人もいなくなった俺にとって洋楽はかなりの心の支えになりました。そんな洋楽ですが時は移り90年代前半になるとアメリカのヒットチャートはラップなどの黒人音楽が主流になりロック・ポップスは廃れていきました。日本でのテレビの洋楽番組も次々と消滅していきました。アメリカでロック・ポップスが流れなくなり(その影響下にある日本でも)、ヒットチャートに80年代のような活気がなくなると同時に私の洋楽への興味も段々薄れていきました。


超常現象(UFO、未確認動物(UMA)、幽霊、超能力など)

ハマり時代 小学高学年時代〜大学時代位まで 1980年代前半〜1990年代中頃

俺は超常現象大好きな子供だった。小学生の頃から子供向けの超常現象の本を読みまくっていました。超常現象の中でも一番好きだったのはUFO。未確認動物(UMA)、幽霊なども勿論好きでした。超常現象のテレビ番組は必ず見ました。学級新聞で俺が書く話題は超常現象のこと。小学六年の時の夏休みの自由課題で「追跡!赤い目の巨人」という長編創作作文を書きました。富士山の山麓で探検隊が雪男のような毛むくじゃらの赤い目の巨人を探すというストーリーです。内容はほとんど覚えていませんが、UFOも関係してくる物語で赤い目の巨人の正体が宇宙人か宇宙人のペットみたいなものだったと思います。ああ、あの俺が書いた長編創作作文もう一回読みたいな。中学時代も引き続き超常現象好きでした。中学二年の時の夏休みの自由研究では友達と心霊写真の研究をして、創作・発表しました。高校時代も超常現象好きでした。「ムー」という超常現象の雑誌も読み始めました。高校三年の時に創刊された「ワンダーランド」という超常現象の雑誌のあすかあきおの漫画のコーナーが一番楽しみにして読んでいました。古本屋で見つけた宇宙人とのコンタクトの本なんかも読んだなあ。友達も俺が超常現象好きなのを知っていて、年賀状に「第二の矢追になってください」と書かれたこともありました。大学時代も相変わらず超常現象好きでした。この頃は超常現象ブームで今よりも超常現象のテレビ番組も多くて録画して見てました。UFO関連の本も大分読みました。録画したテレビのUFO番組と本を資料にUFOに関するレポートみたいなのも作りました。誰に見せるでもなく、UFOに関する話をする友達もいなく、完全に自己満足なんですが。まあ今だったらインターネットでいくらでも超常現象の話ができるので今の人がうらやましく思います。昔インターネットがあったら俺は超常現象のホームページ見まくりで自分で超常現象のホームページも作っていたかもしれません。ちなみに俺は超常現象を盲目的に信じる肯定派でも頭ごなしに否定する否定派でもなくて、その中間の楽しむ派でした。今は学生時代程超常現象には興味がなくなり、たまにやる超常現象のテレビ番組を見るくらいで、超常現象の本を読むとかはなくなりましたね。でも毎年年末に放送されるたけしの超常現象番組はいつも楽しみにして見ています。


スポーツ番組を見ること

ハマり時代 小学高学年時代〜大学時代位まで 1980年代前半〜1990年代中頃

俺は子供の頃からスポーツ番組が大好きでした。俺が小学五年の時の一年の重大ニュースベスト3は、1位PL学園が春の甲子園で優勝したこと。2位PL学園が夏の甲子園に出場出来なかったこと。3位瀬古利彦がマラソンで優勝したことって書いたと思います。みんな他の子達は自分の身の周りの些細なことや社会の重大事件を挙げてるのに俺だけはスポーツ関連。スポーツ番組は特に高校野球と男子マラソンが好きでした。高校野球では当時PL学園が強くて大好きでした。当時PL学園のエースは西川、次の年は榎田。小学四年から五年になる春の高校野球決勝の日に友達が遊びに来て、俺は「高校野球見るから」って遊ぶのを断りました。決勝の試合が終わるやいなやすぐにまたその友達が遊びに来ました。その子の第一声が「PL勝ったべ」。何が「PL勝ったべ」だよ。俺はその後の表彰式・閉会式も見たくて見たくてしょうがなかったんだけど、1日に2回も遊びに来られて断ることも出来ず、仕方なく表彰式・閉会式を見ないでその友達と遊びました。お前どんだけ俺と遊びたかったんだよ。男子マラソンは瀬古利彦や宗兄弟。毎年瀬古が出場するマラソン番組はハラハラドキドキ食い入るように見ていました。いつも競技場に入ってから最後のラストスパートで勝っちゃう瀬古超カッコイイって思ってました。瀬古が走るマラソンの前に友達が遊びに来て、仕方なく友達と遊んだんだけど、俺は「マラソン始まるから」ってマラソン始まる時間には遊ぶの止めて帰らせてもらったことがあります。大相撲も好きでした。後に共に横綱になる大乃国と旭富士が同時に新入幕して当時期待の新人だったことも覚えています。俺が昔好きだった力士は千代の富士と北天佑でした。千代の富士は言うまでもない人気と実力を兼ね備えた昭和の名横綱です。北天佑が大関になる頃は千代の富士に強く千代の富士キラーと呼ばれていた時期もありました。その頃は周囲の評価も高く「すぐ横綱になるのでは」と言われていましたが、その後伸び悩み結局北天佑は横綱にはなれませんでした。あとプロレスも好きでいつも見てました。ワールドプロレスリング(新日本プロレス)は小学四年の時から30年間毎週欠かさず見続けている自分にとって一番の長寿番組です。アントニオ猪木は俺の憧れのヒーローでした。中学時代も引き続きスポーツ番組大好きでした。中学一年の四月くらいの時陸上雑誌の別冊の「不死鳥 瀬古利彦」という本を買いました。その本にはそれまでの瀬古が走った全マラソンの結果も載っていました。俺は一時期それを暗記してしまって、瀬古が何マラソンを2時間何分何秒で走ったかを全部覚えてしまいました。その本には瀬古に敗れたロドルフォ・ゴメスのインタビュー記事も載っていて「俺の敵はサラザール、瀬古、お前じゃない」と負けた言い訳みたいな発言をしていて、俺は「何がぁ〜」と思ったことがあります。中学一年の四月に行われたロッテルダムマラソン。録画ですがテレビ放送された日がありました。俺はそのマラソン番組が見たくて見たくて仕方なかったのですが、入部したばかりの部活動に参加しなければならない為に見れなくて残念過ぎたことを今でも覚えています。当時の世界最高記録(その後この記録は取り消しになる)保持者のアルベルト・サラザールと世界第2位の記録を持つロバート・ド・キャステラが直接対決したマラソンでした。そして俺の一番の関心事は中学二年の時のロサンゼルスオリンピック男子マラソン。俺は瀬古利彦の金メダルを信じて疑いませんでした。なぜなら俺は瀬古が負けたレースを一度も見たことがなかったからです。実際瀬古は当時マラソン何連勝中で何年もの間負けを知りませんでした。しかしロサンゼルスオリンピックで瀬古はトップ集団から遅れはじめました。目を疑いました。信じられない光景でした。それに前年の第一回陸上世界選手権で優勝した優勝候補のロバート・ド・キャステラもトップ集団から引き離されました。アルベルト・サラザールも惨敗。日本で瀬古のライバルとして有名だったジュマ・イカンガーもダメ。優勝したのは前年のロッテルダムマラソンでロバート・ド・キャステラとデッドヒートしてわずかの差で敗れた伏兵カルロス・ロペスでした。あと中学二年の時のボクシングジュニアバンタム級のチャンピオン渡辺二郎のWBA・WBC王座統一戦パヤオ・プーンタラットとの一戦も超楽しみにしていました。王座統一戦はチャンピオン同士の戦い。本当の世界一の王者が決まる試合なんて見るのがはじめてだったからです。高校野球はPL学園の桑田・清原のKKコンビ時代。ちょうど彼らの高校一年から高校三年が俺の中学一年から中学三年に当たります。勿論ずっとPL学園を応援していました。中学一年の夏の高校野球でPL学園が優勝して終わった後、報知高校野球という雑誌の別冊が発売されて俺はそれを買いました。PL学園の記事を暗記する程読みました。その雑誌には通信販売の広告があって、俺は「PL学園」と印刷してもらったレプリカ記念ボールと「青春と白球」という文字が書かれて開会式らしい写真(裏には歴代優勝校の記載)の下敷きを買いました。クラスメイトはその下敷きが珍しいらしく、よく手に取ってじろじろ見られて「青春と白球」と言われたりしました。高校時代も高校野球(PL学園)、プロ野球(西武)、大相撲、プロレス、と男子マラソンなどが好きでした。特にプロ野球が好きで球団は西武が好きでした。当時日本シリーズは平日の昼間もやっていて、どうしても西武が出ている日本シリーズが見たくて学校ズル休みしてテレビ見ていたことがありました。大学時代もスポーツ全般好きで特にオリンピックは注目して見ました。1992年アルベールビル冬季オリンピック。大学時代のモラトリアムを過ごしていた俺は春休みだったこともあり夜通しオリンピックを見ていました。なかでも印象に残っている競技は男子スピードスケート1000m。解説の人が(第一グループより力の劣る)第二グループでメダルの可能性が高いのは日本の宮部行範とオランダのヘラルト・ファン・フェルデだと言いました。だから俺はヘラルト・ファン・フェルデに注目して見ていました。ヘラルト・ファン・フェルデは確かに第二グループのなかでは他の選手に比べて体が一回り大きくていかにも強そうでした。レースは屋外リンクだったので悪天候の影響もあり、解説者の言う通り第二グループの宮部行範が3位ヘラルト・ファン・フェルデが4位になりました。それから俺はなぜかヘラルト・ファン・フェルデのファンになってしまいました。ヘラルト・ファン・フェルデは1998年長野冬季オリンピックには出場できませんでした(スラップスケート(当時新開発されたスケート靴)への対応がうまくできなかったらしい)。引退したのかな?と思っていましたが2002年ソルトレイクシティ冬季オリンピックにオランダ代表として復活し1000mで見事金メダルを獲得しました。昔から密かに応援していた外国の選手が金メダルを取ったのは本当にうれしかったです。大学の就職活動の時、履歴書の特技の欄に俺は「スポーツのクイズ」と書きました。実際本当にスポーツのクイズが得意でクイズ番組でスポーツの問題が出たら答えられない問題はほとんどなかった程スポーツに詳しかったです。スポーツのクイズに絶対の自信を持っていました。サッカー、野球、相撲、陸上、ボクシング、プロレス、ウィンタースポーツ(特にスピードスケート)なんでもござれでした。

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